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Dog photography and Essay

Dog photography and Essay

九寨溝旅情2


「四川九寨溝旅情16」

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都江堰は、岷江が龍門山脈を抜けて
成都平原(四川盆地の西部)に出るところに
形成された扇状地の扇頂部に設けられている。

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岷江の水を左岸(東側)一帯へと分水している。

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都江堰は現在でも 5,300 km? に及ぶ範囲の
農地の灌漑に活用されており、
古代の優れた土木技術を今に残すものである。

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それまで水不足に苦しんでいた成都平原は
水田や桑畑などが急速に広がり水運も便利になった。

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皆からは「天府之国」と謳われる大穀倉地帯となった。

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「四川九寨溝旅情17」

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都江堰は以後も改良や補修を加えられ、
2300年後の現在もなお機能する古代水利施設である。

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現地には、李氷の偉業を讃え石像も建てられている。

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1982年には国務院の指定する
全国重点文物保護単位の一つとなった。

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2000年には青城山とともに
ユネスコの世界遺産に登録された。

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なお2008年5月12日の四川大地震では
都江堰の先端の「魚嘴」部分にひび割れが入り、
二王廟などの寺院群が倒壊するなどの甚大な被害が出たが、
堰の機能には大きな影響はなかった。

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「四川九寨溝旅情18」

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李氷の像紀元前3世紀、戦国時代の
秦国の蜀郡の太守李氷(李冰)が、
洪水に悩む人々を救うために紀元前256年から
紀元前251年にかけて原形となる堰を築造した。

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李氷は、春の雪解け水が山々から殺到することで
岷江が増水し、岷江の流れが緩やかになり
川幅が広くなる地点で周囲に水があふれ出して
毎年洪水になると判断した。

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ダムを造ることが一つの解決策であったが、
岷江は奥地の辺境へ軍を送る重要な水路でもあるため、
ダムで完全に堰き止める案は採用しなかった。

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川の中に堤防を作り水の一部を本流から分け、
その水を玉壘山を切り開いた運河を通して、
岷江左岸の乾燥した成都盆地へ流すことを提案した。

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李氷は昭襄王から銀十万両を与えられ、
数万人を動員して工事に着手した。

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「四川九寨溝旅情19」

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川の中の堤防は、石を詰めた細長い竹かごを
川の中に投入して建設され、「?槎」という
テトラポッド状の木枠で固定された。

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大規模な工事には4年の歳月が費やされた。

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岷江から盆地への運河を山を
切り開いて建設することは、火薬や
爆薬のない当時の技術では困難であった。

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玉壘山の岩盤を火で温めた後に
水で冷ますことを、岩盤に亀裂が入るまで
繰り返しながら少しずつ岩山が崩されていった。

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8年の工事により 20 m 幅の運河が山の中に建設された。

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「四川九寨溝旅情20」

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李氷は工事の完成を見ることなく没し、
息子の李二郎(顕聖二郎真君のモデルともされる)が
工事を引き継ぎ完成させた。

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構造は北から南へと流れる岷江に中洲を造り、
西側(金馬河)を岷江本流とし、
東側(灌江)を農業用水として活用する。

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堰は川を分水する「魚嘴」、
土砂を灌江から排出する「飛沙堰」、
灌江の水を運河へ導水する「宝瓶口」という
3つの堤防状構造物からなる。

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このほか川沿いの堤防(金剛堤・人字堤)、
付属建築などもある。

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農地の灌漑・排砂・水運・街への生活用水の
供給などを果たす、古代人の知恵を
偲ぶことができる構造である。

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「四川九寨溝旅情21」

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魚嘴の先端部岷江の流れを適切な
比率で本流と灌江に分ける「魚嘴」は
最も重要な構造物である。

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外側の本流の広さは 150 m 、内側の灌江の幅は
130 m となっており、川の地形も
活用して水量を配分している。

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春の水量が少ない時期は4割が本流へ、
6割が灌江へ流れ農業用水を確保する。

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春や夏の増水時には水が「魚嘴」の
先端を乗り越えるため、6割が
本流へ向かい灌江があふれるのを防ぐ。

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これが「分四六、平潦旱」と
表現されているこの堤防の機能である。

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「四川九寨溝旅情22」

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また、堤防にはかつては「?槎」という
テトラポッド状の木枠が置かれていた。

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これは外を竹に覆われ、中に土砂がたまる
仕組みのもので、農業用水が必要な時は外の本流側に
これを置き本流の流れを制限して灌江へ導入する。

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田に水が漲られ、川の水位も増大する季節には
本流側の「?槎」は除去され本流の流れをスムーズにする。

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1974年に本流側に閘門が完成したことで「?槎」の役割は終わった。

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「四川九寨溝旅情23」

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「魚嘴」の先端部は半月形でその名の通り
魚の口状となっており、現在は石と
コンクリートで築かれている。

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長さは80m、幅は広い所で39.1m、高さは6.6m。

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「魚嘴」の下流には「金剛堤」が続き
三日月状の中州を形成する。

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灌江側は延長650m、本流側は延長900m。

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金剛堤と中州が終わった部分より下流には
「飛沙堰」という灌江から本流へつながる排水路と、
さらなる中州と堤防の「人字堤」が続く。

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「魚嘴」の上流には全長1950mの
「百丈堤」という護岸があり、あふれる水と
土砂を川の西寄り(本流)に跳ね返すようになっている。

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「四川九寨溝旅情24」

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歴史的に、「魚嘴」の位置は、
岷江流域を襲う大洪水や大地震などにより
変動しており、建設当初より2km近く下流にある。

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1933年8月25日の疊溪大地震(茂県大地震)の
際に岷江上流にできた堰止湖が、
同年10月9日に決壊して当時の都江堰を押し流し、
1936年にようやく再建工事が完了した。

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現在の都江堰の位置はこの際に確定した。

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中州で分けられた本流(左)と
灌江(右)堰の中ほどにある幅 200m ほどの
開口部・「飛沙堰」は灌江側から本流側に
土砂や余分な水を戻すためのものである。

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洪水になっても灌江側が氾濫しないように、
灌江側の水流が岷江本流へ戻るような仕組みとなっている。

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「四川九寨溝旅情25」

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飛沙堰は、もとは「侍郎堰」といい、唐の高宗の
龍朔年間(661年 - 663年)に建設された。

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飛沙堰は、金剛堤の上流側から710m の位置に、
灌江側から本流側に向かって斜めに開いた開口部で、
その幅一杯に川床から2m の高さの堰が作られている。

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運河に水が殺到し成都平原で洪水にならないよう、
また運河が土砂で埋まらないように設けられたもので、
遠心力で土砂や石が本流側に向かうように設計されている。

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渇水時に川面が低くなった時には、
灌江の水は飛沙堰に阻まれて全量運河側へ入る。

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水が運河の入口(宝瓶口)からあふれた時や
増水の時は、水は宝瓶口の手前で滞留し回転し、
飛沙堰を乗り越えて本流へと流れる。

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「四川九寨溝旅情26」

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同時に、灌江側にある虎頭岩を周りこむ際の
遠心力で土砂の大半が本流側に排出される。

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宝瓶口は左奥の離堆の上にある。
老王廟「宝瓶口」は玉壘山の断崖に
切り抜かれた狭い導水路で、
その名の通り瓶の首のように細い。

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ここで灌江から用水路へ水が導かれ、
ここから入れない余った水は120m離れた
飛沙堰を乗り越え本流へ排出される。

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古代の灌県城の西門・玉壘関の下にあり、
都江堰の建設と同時に作られた。

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宝瓶口は上が広く下が狭く、頂上部の幅は29mあり
底部の幅は14.5mあり、灌江から運河へ
向かう部分の幅は70mある。
ここで瓶の口のようにせまくなることから
この宝瓶口の名がついたとされる。

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「四川九寨溝旅情27」

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この地方で標高2000mを超えている。

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宝瓶口も飛沙堰と同じく、運河へ入る水の量を調節する。

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春季、灌江から宝瓶口を通過した水は
成都平原の広大な水田を潤す。

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しかし増水時には、宝瓶口の手前の
飛沙堰を水が乗り越えてしまうため
宝瓶口に達する前に水が本流に流れてしまう。

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さらに宝瓶口が入る水の量を制限するため、
灌漑路の沿岸では洪水にならない。

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「四川九寨溝旅情29」

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宝瓶口より先では、運河は西北が高く
東南が低くなるように作られているので
水は自然に東南の平野の方へ流れるようになっている。

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宝瓶口の左側の山の崖には、一市尺ごとに
数十本の目盛(水則)が刻まれ、これは
古代中国の現存最古の水位標識である。

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成都平原で次々水路が作られ灌漑対象地域の拡大により、
必要な水量は時代ごとに増加していった。

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宋の時代には目盛りは10本しかなく、下
から6本目の水量で農業用水は足りた。

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元の時代には9本目が最善とされ、それより水量が
多くても少なくても成都平原は困窮した。

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「四川九寨溝旅情30」

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清の時代には目盛りの16本目までの
大洪水が記録されたが、今日は目盛り数は
24本に増え、春の農業用水には
14本目までの水量が必要である。

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宝瓶口の右側の山は、運河開削で左側の山から
切り離されてしまったため「離堆」の名がある。

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山の上には李冰を祀る伏龍観(別名:老王廟)がある。

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宝瓶口の両側の岩盤は2000年の間に急流で
次第に削られ、大きな空洞ができてしまったため、
1965年と1970年に離堆が補修された。

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魚嘴とその対岸の百丈堤都江堰完成後、
成都平原は豊かな農業地帯へと変わり、
成都の街は岷江からの水運がつながったことで
物産の集まる交通の中心となった。

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「四川九寨溝旅情31」

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また李冰は玉壘山の東に成都へ向かう2本の
幹線水路を建設し、前漢の蜀郡太守・文翁は
成都平原の東部へと水路を伸ばした。

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後漢には牧馬山高地にも灌漑水路が伸びた。

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同時に、都江堰の反対側である岷江右岸側にも、
李冰の時代に羊摩江という灌漑路が造られたのを
基礎として漢代に延伸され、成都平原西南部も灌漑されていった。

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漢代には灌漑面積は「万頃以上」(漢の単位「頃」は、
現在の「畝」(ムー)では70畝にあたる)に達した。

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唐の時代、益州大都督長史の高儉が灌漑水路の
支線を建設し、稠密な水路が平原を覆い水田が拡大を続けた。

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「四川九寨溝旅情32」

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この水路網の起点はすべて都江堰にあった。

松州県地区は大地震の震源地文川から北西に進んだ所にある。

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宋代においては、王安石の「京東提点」の
「刑獄陸君墓誌銘」によれば、都江堰の灌漑区域は
1府2軍2州12県に達し、現在の137.7万畝に達していた。

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清代には14の州県の約300万畝が、1937年の統計では
263.71万畝が都江堰の恩恵に浴していた。

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1938年に出版された「都江堰水利述要」では
「川西地方の14県の広さが約520余万畝」と記載されている。

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中華人民共和国はさらに水路網の拡充を続け、
1960年代末には灌漑面積は678万畝に、1980年代初頭には
龍泉山脈以東の地区にまで灌漑地域が広がった。

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